震災で母を失い、児童養護施設へ

当時5歳の鈴木さんは、神戸市兵庫区の母子寮で暮らしていました。両親が離婚し、母の富代さん(当時44)と8歳上の兄と移り住んで1年たたないうちに震災が起きました。建物は倒壊。兄は無事でしたが、母は亡くなりました。自身も数時間、生き埋めになりました。「真っ暗で何が起きたかもわからない状況で。しばらくしたころに誰かが見つけて助けてくれました」

鈴木佑一さんが暮らしていた母子寮。全壊し、がれきが下の道路に崩落した現場を住民たちが呆然と見ていました=1995年1月17日、神戸市兵庫区 ⓒ朝日新聞社

母は歌が上手で、楽しそうに歌う姿を鈴木さんは覚えています。兄と二人で父に引き取られましたが、父は幼い鈴木さんを育てるのが難しく、一人で児童養護施設に預けられました。

幼少期の鈴木佑一さん(手前)と、母の富代さん=鈴木さん提供

鈴木さんは、ひょうきんで人を笑わせるのが好きな子どもでした。小学生のころは震災を思い返すこともなかったそうです。でも中学生になったころには、人生に「絶望」していました。

未来が見えず絶望した中学時代 必死に力をつけた

中学生になるといきなり、将来を考えるよう学校で促されたように感じました。当時、勉強が得意ではなく、部活動も施設の規則で参加できませんでした。施設には非行に走る人もいましたが「自分はどっちつかずで、どこにも居場所がありませんでした」。

鈴木さんは、「力がない自分が悪いのだと、悔しくて仕方なかった」といいます。父や兄は面会に来なくなっていました。どう生きればいいのか考え抜き、まず高校へ進学。力をつけて早く自由に生きたい一心で、一から勉強し体のトレーニングにも励みました。友達はいましたが、「境遇を誰かに共有しても意味がないと思っていました」。不安は常にあり、「毎日崖の上を歩いているような気持ち」でした。

努力して大学に合格。尊敬できる先生に出会い、毎日のように研究室に通いました。先生は息子のようにかわいがってくれました。大学院、ベンチャー企業への就職を経て会社を起業。次第に自信がつき、不安や恐怖は消えていきました。

兄と再会、今は「自分の人生が好き」

一方で「家族」はずっと、「自分にはいないと切り離して考えていた」といいます。18歳のときに、父が亡くなっていたことを戸籍を見て知りました。兄の行方もわかりません。完全に一人なのだという思いから、自分にも人にも厳しくなりました。「けれど無理をしていたと思います」

今から2年前。お世話になった母子寮の先生が人づてに兄の様子を聞きました。先生は「二人はすれ違っている。会ってほしい」と鈴木さんに伝えました。兄は鈴木さんに何もできなかったと自分を責めているようでした。

兄は震災当時10代。「仕方がなかった、自分を責めないでと伝えたい。それからさまざまな人の力を借りて、2023年11月に兄と再会しました。第一印象は「父に似ているな」と思ったそうです。兄は申し訳なさそうな暗い顔でしたが、鈴木さんの思いを聞くと、「救われる」といってくれました。それから二人は毎月会って、食事や登山などをして過ごしています。兄は友人から「そんなに笑うのか」といわれるほど明るくなったそうです。

鈴木さんにも大きな変化がありました。これまで得られなかった、安らぎや満たされた気持ちを感じることができるようになったのです。

「これまで自分にはベースがなかった。買い物をしたり、遊んだり、何をしても満たされなかった。兄と会ってやっと人間になれた。初めて人生でもたれかかれる人が見つかった。ベースができるって、自分の能力に足されるのではなく、かけ算なんです」

絶望の中、努力し、次第に支えてくれる人たちにめぐり会いました。「今はこれまでの自分も褒めたい。僕は自分の人生が好きです」

昨年の「1.17のつどい」で、遺族を代表して思いを述べる鈴木佑一さん。母親の形見の赤いマフラーを巻いてのぞみました=2024年1月17日、神戸市中央区の東遊園地 ⓒ朝日新聞社

中高生へ 違和感と向き合って生き方をみつけて

中学生のころは、「人生で一番つらかった」。突然、社会に出るためのレールが敷かれ、それに合わせた物差しで評価されることに違和感を持ちました。未来が見えない中、居場所もなかった苦しさを鈴木さんは今も覚えています。だからこそ、「違和感をもったら大事にしてほしい。向き合って、自分はどう生きるか、どう生きたら自分らしいかを考えたらいい。ごまかしていたら、聞こえなくなってしまいます」。

家族を得たことで、「欠けていた大事な最後のピースがやっとはまった。でも家族が、こんなに大事なピースだと思っていませんでした」。一方で、いま家族を良く思えない中高生には、「嫌でもいい。ただ、また近づきたいと思ったら意地を張らずに近づいて」と伝えたいといいます。

昨年の自身の誕生日に、鈴木さんは母の形見のマフラーなどを兄に渡しました。兄は母のものを何も持っていなかったからです。

震災から30年。今年の1月17日は、母子寮の跡地に寄り、母の墓参りをし、県の式典に参加します。さらに中学校での講演、慰霊碑の除幕式と予定がたくさんあります。でも「終わったら、兄と飯にでも行きたいと思っています」。

阪神・淡路大震災の犠牲者への鎮魂の思いなどを込めた「1.17希望の灯り」のそばに立つ、鈴木さん=2024年12月、神戸市中央区の東遊園地

阪神・淡路大震災

 1995年1月17日午前5時46分に発生したマグニチュード7.3の直下型地震。震源は兵庫県の淡路島北部。淡路島や同県神戸市、西宮市、芦屋市などで震度7を記録した。死者は6434人、行方不明者3人、負傷者は4万3792人。全半壊した住宅は約25万棟に上った。

(朝日中高生新聞2025年1月12日号)