
田辺初江さん(90)千葉県白子町
蜜がたっぷりで甘く、ねっとり――。近年、スイーツとして、夏でも人気のサツマイモ。でも、千葉県白子町に住む田辺初江さん(90)は「できれば、もう食べたくない」といいます。理由には、戦時中の記憶が深くかかわっています。(中尾浩之)
イモ食べしのぎ、働きづめの日々
太平洋戦争末期の1945年3月。国民学校(現在の小学校)の3年生だった田辺さんの日常は、父・新五郎さんが満州に出兵し、一変しました。
しょうゆ工場の親方で「やさしくて働き者だった」という新五郎さんがいなくなり、何の不自由もなかった暮らしは苦しくなっていきました。
母は畑仕事で手いっぱいとなり、4人きょうだいの一番上の田辺さんは、弟たちの世話や家事に追われるようになります。
勉強好きだった田辺さん。学校にはまだ1歳の弟をおんぶして登校。弟が泣き出すこともあるので、教室の外から窓ごしに授業を受けました。
そんな生活で食卓に上ったのが、家の畑でつくっていたサツマイモ。ただ、出来のいいものは兵隊の食料として徴収されるため、その残りものでした。かまどでふかしたイモや、風に当ててつくった干しイモを食べていたといいます。
今のサツマイモは品種改良が重ねられ、甘くておいしいものが多いです。しかし当時は、「甘くないどころか、味もしないほど。とてもおいしくはなかった」。
それでも「おなかを満たすために食べるしかなかった」。
45年8月15日。農作業中の畑で、昭和天皇が戦争の終わりを告げたラジオ放送「玉音放送」を聞きます。
「お父さんがやっと帰ってくる」。そう喜びましたが、新五郎さんの姿を二度と見ることはありませんでした。
新五郎さんは満州で終戦を迎えた後、ソビエト連邦につかまり、シベリアで抑留。同年12月、栄養失調で命を落とすことになったからです。
田辺さんは新五郎さんのいない寂しさや進学したい気持ちをこらえ、15歳から千葉県の家を離れて東京の乾物屋で働き出します。朝4時から深夜1時まで働き、休みは1カ月に1日。給料は家族のために送れるだけ送りました。

「おいしいイモ」に平和
戦時中から戦後も続いた苦しい日々の記憶が、「サツマイモを見るとよみがえる」。それがサツマイモを遠ざける理由にもなりました。
田辺さんは今のサツマイモ人気を「信じられない」と話します。でも、人々がサツマイモをおいしそうに食べる世の中はうれしいと感じています。「好きなものでおなかを満たせるのは平和だから」と田辺さん。
自らは進んでサツマイモを食べようとはしません。ただ、サツマイモが好きなひ孫のために、干しイモづくりは喜んで続けているそうです。
戦後80年を迎える今年。田辺さんは「これからも若い人たちが、おいしいサツマイモを食べられる世の中であり続けてほしい」と語ります。
中高生のみなさんに向けては、「食べ物がある、自由に学べる、家族が一緒に暮らせる。そのどれもが本当に幸せなこと。戦争は幸せを簡単に奪う。今ある幸せが続くように、平和の考えを大事にしてほしい」と語りかけています。
(朝日中高生新聞2025年5月4日号)
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