きょう長崎原爆の日
6歳で被爆した池田道明さんに聞く
長崎に原子爆弾(原爆)が落とされてから、73年がたちました。朝小は2018年7月22日に長崎市で「こども編集部」を開催。こども記者13人が、6歳の時に長崎で被爆した池田道明(いけだ・みちあき)さん(79歳)のお話を聞きました。みなさんも池田さんのお話を聞いているつもりで、想像してみてください。

泣く赤ん坊の声 聞こえるわけはないのに…
太平洋戦争末期、東京や大阪、神戸など、国内の大きな都市は、アメリカ(米)軍の爆撃で、大きな被害が出ていました。
――空襲警報が鳴ると、防空壕や竹やぶへとにげこみます。赤ん坊を連れたお母さんは、どうしても避難がおそくなるんですね。赤ん坊が泣くと、先に避難した人からは「泣かすな」「あっちへ行け」という言葉が母親へとかけられる。そうすると、赤ん坊の泣き声がぴたっとやむんですね。泣きやんだんじゃないんです。おそらく、母親が力いっぱい赤ん坊の口を押さえたか、おっぱいを口にふくませるかしたんだと思います。
私も「ああ、よかったな」と思いました。なぜなら、赤ん坊の泣き声が爆撃機の操縦士にも聞こえてしまい、ここに爆弾を落とされたら大変なことになるから。でも、地上で泣いている赤ん坊の声が、上空8千メートルを飛ぶ爆撃機まで聞こえるわけなんてないんです。
戦争で自分の命も危ないという状況になったら、普段ならそんなことを言わない人でも、「泣かすな」なんて、ひどいことを言うんです。戦争が、人の心を変えるんですね。
そしてむかえた1945年8月9日
池田さんは爆心地から700メートルほどのところにある長崎医科大学附属医院(現在の長崎大学附属病院)で被爆しました。母親がこの病院で働いていたため、いっしょに病院で寝泊まりしていました。
――1945年8月9日はいい天気でした。午前8時ごろ空襲警報が鳴ったので、私は病院の地下室に入りました。100人くらいが入れますが、扇風機もないので、暑いんです。でも長崎では1日にも爆撃があったので、暑さはがまんして避難していました。10時ごろに解除され、みなそれぞれの職場や病室へともどっていきましたが、私は夏休みなので、何もやることがありません。そのころ、病室に「シゲちゃん」という男の子がおりました。シゲちゃんは母親が入院中で、その付きそいで祖母と病院にいました。シゲちゃんとは同じ国民学校1年生どうし、いつも2人で遊んでいたので、その日も「何して遊ぼうか」と相談しました。
シゲちゃんの言葉で屋上から1階に
3階建ての外科病棟の屋上に上ると、そこには爆弾の破片が落ちていました。そこで2人は、どちらが大きいのを見つけられるか競争することになりました。
――しばらくすると、シゲちゃんが「あった!」とさけびました。かけよってみると、たしかに大きい。ふつうのは消しゴムぐらいの大きさですが、シゲちゃんのはこぶしの大きさくらいあった。「よぉし、シゲちゃんより大きいの見つけるぞ」と探していたのですが、またしばらくして、シゲちゃんは「もう下りようか」と言うんです。「どうして?」と聞くと、「便所に行きたくなった」と言うんですね。私は「シゲちゃんより大きいのを探すんだ」と言いましたが、「じゃあこれあげるから下りようや」と言うので、エレベーターで下りることにしました。

エレベーターおりた瞬間「ピカッ」
原爆が炸裂したのは午前11時2分。エレベーターが1階に着き、おりた瞬間のことでした。
――エレベーターから飛び出した時、ろうかの奥が「ピカッ」と光り、私はその瞬間に気を失いました。どれぐらい時間がたったのかわかりませんが、目が覚めるとあたりは真っ暗。私は「ああ、しまった」と思いました。なぜなら当時、爆弾が落ちたら手で耳と目を押さえて地面にふせなさいと教えられていたんです。私は押さえていなかったために、目にけがをして、そのせいで真っ暗なんだと思ったのです。真っ暗な中、「シゲちゃーん」と呼ぶと、2回目で「みっちゃーん(池田さんのこと)、どこにいるの~?」と返事がありましたが、どこにいるのかはわかりませんでした。
しばらくじっとしていると、だんだん目が見えるようになってきました。周りを見ると、私はエレベーター前のろうかにいたはずなのに、土の上に転がっていて、体にはろうかの板の破片がのっていました。ろうかによじ登ると、窓ガラスが爆風で割れ、散らばっていました。
かべにもたれている看護婦に近づいてみると、頭から血をたくさん流していて、白い服が真っ赤になっていました。その看護婦はおこったような声で「警防団(地域の消防や防空などを担う組織)を呼びなさい!」と私に言いました。どこに警防団がいるのかわからなかったけれど、そのままではしかられると思ったので、私は窓から中庭に飛び出しました。
窓から中庭に出ると、そこは火の海。あちこちに人が倒れて死んでいました。みんな髪の毛はちりちり、目玉は飛び出して、ぶら下がっていました。唇は上下にめくれ、歯がむき出しに。体はもとの2倍くらいにふくれ、亡くなった人の家族が来たとしても判断できないほどに変わっていました。
私は最初、病院にたくさんの爆弾が落とされたのだ、病院の外に出れば助かる、と思ったんです。その時はまさか、たった1発の爆弾によるものとは思いもしなかった。しかし、病院の外に出てみると、もっとひどい。家は全てつぶれ、せまくなった道をたくさんの人が逃げてくる。ひどいやけどで、手の皮膚が垂れ下がっていました。
死んだ子背負い泣く母親 かまう余裕もない人々
奇跡的にけがはなかった池田さん。同様に無傷だった別の看護師とともに、病院から500メートルほど離れた金比羅山へと避難しました。
――山に登る途中、バタバタと人が倒れていきます。でも、みんな人を助ける余裕はないんです。休憩している時、赤ん坊をおぶった女性が登ってきました。赤ん坊はガクッと首が落ちて口が開いていたので、私は「おばちゃん、赤ちゃん死んでいるみたいよ」と教えてあげました。女性が赤ん坊を背中からおろし、ゆすってみると、やはり赤ん坊は死んでいました。その女性は大声で泣くのですが、私は大人がそんな風に泣くのを見るのが初めてで、どうしたらいいのかわからなかった。そのわきをたくさんの大人が通るんですが、人のことなどかまっておれないんですね。これもやはり、戦争が人の心を変えるということです。
母、シゲちゃんと再会し、なみだ
池田さんは山の上で一夜を過ごし、翌日、病院へもどりました。そこで母とシゲちゃんに再会することができました。
――母は背中にガラス片が100個くらいささり、ベッドにうつぶせになっていました。母の姿を見たとたん、ただただ、なみだが出てきました。母は「爆弾が落ちた時はどうしてた」「どうやってにげた」「ごはんは食べたか」などといろいろと聞いてきました。「おまえもつかれただろうから寝なさい」と言ってくれたのですが、私は「いや、シゲちゃんと遊ぶ!」と言って、中庭へとかけていきました。
水を飲み亡くなっていく人たち
中庭に行ってみると、そこはまだところどころ燃えていて遊べるような状況ではありませんでした。池田さんは病室にころがっていた一升瓶を手に、大人たちのために水をくんでくることになりました。
――水をくみに行くと、道ばたで倒れている人たちと目が合いました。瓶の口を出すと、みんなゴクゴク飲むんです。ある程度飲むと、「はー」という声を出す。「おいしい」でも「ありがとう」でもあく、「はー」。次の人、さらに次の人にあげていると、空になったので2本目をくんで行くと、少し先でまた何人か倒れていたので、この人たちにも水をあげました。空になったので、再び水をくみにもどると、1本目を飲んだ人たちはみんな亡くなっていました。時間としては5~6分。3本目をくんで行くと、2本目を飲んだ人たちも亡くなっていました。
病室にもどり、「ぼくが水をあげると、みんな死んでしまった」とそこにいた人たちに言うと、「死ぬ間際においしい水をもらって、安心して死んでいったんだ」となぐさめられました。
孤児になったシゲちゃん 再会かなわず
池田さんは、母の実家にいた姉が病院に来たので、姉とともに母の実家に行くことになりました。
――ここから先は母から聞いた話ですが、翌日、さらにその翌日に、シゲちゃんの祖母と母親は亡くなりました。父親はすでに戦死していたので、シゲちゃんは孤児になったんです。その後、救援に来ていた陸軍の看護婦について、終戦とともに福岡県久留米市に行ったと聞きましたが、それ以来、シゲちゃんには会っていません。
池田さんは10年ほど前、新聞社の協力を得て久留米市でシゲちゃんを探しました。しかしシゲちゃんと別れた当時、おさなかったため、池田さんはシゲちゃんの本名すら知りませんでした。結局シゲちゃんを見つけることはできませんでしたが、それらしい人の情報は、さまざま得ることができました。
――シゲちゃんは、久留米で出前の配達などをしていたが、お金の計算ができなかったという話を聞きました。戦後はどこかの施設に入れられて、勉強もできなかったのだろうと思います。戦争がなければ、シゲちゃんもちがった人生になっただろうと思います。
(朝日小学生新聞2018年8月9日付)

「朝小プラス」は朝日小学生新聞のデジタル版です。毎日の読む習慣が学力アップにつながります。1日1つの記事でも、1年間で相当な情報量に!ニュース解説は大人にもおすすめ。