
8月15日は、57回目の終戦記念日です。日本の戦争は、みなさんにとっては、むかしのことかもしれません。でも、このつらい体験をした人が、身近にいます。朝小でおなじみのまんが「ジャンケンポン」の作者・泉昭二さんもそのひとりです。戦争のもっともはげしい時期に子ども時代をすごしました。学童疎開、東京大空襲、終戦。泉さんの目を通して当時をふり返り、平和について考えます。3回の連載です。
「お国のため」いじめに耐え我慢
1944年(昭和19年)の8月初め。泉さんは、東京から疎開先の福島県・飯坂温泉へ向けて出発しました。
ぼくは、いまの小学校にあたる国民学校の6年生。12歳だった。夜の9時ごろ、東京・上野から近い三河島駅を出発したと思う。ぜんぜん悲しくなんかなくて、まるで修学旅行へ出かける気分だったね。
3歳のときに母をなくしていたぼくは、ふたりの姉に見送られて出かけた。
翌日、夜が明け始めるころ、飯坂温泉に着きました。
いっしょに疎開した同級生は40人ほど。ぼくらの疎開先は旅館だった。
部屋に入ると、それぞれの家から送られたふとんが置いてある。自分のふとんを見たとたん、なぜか急にさびしさがこみ上げてきた。むしょうに家に帰りたいと思うようになったんだ。
毎朝、東京に向かってあいさつ/食べ物少なくていつも空腹
疎開先での生活はとても規律正しいものでした。
朝6時に起きて、まず旅館のうらにある愛宕山という山にのぼるんだ。その頂上から毎朝、東京の方に向かって、「お父さんお母さん、おはようございます」とあいさつをするんだよ。午前中は旅館で勉強をして、午後はとなり村にある小学校で勉強をする。

学校へは往復1時間ほどかけて歩いて通ったよ。夕方に旅館へもどって、夜9時ぐらいにねるという毎日だった。
食事は1日3回食べられたけど、ごはんとみそ汁に、つけ物か野菜を煮たものがひとつつくくらい。しかも量が少なくて、いつも腹がへっていた。
ずっといっしょの集団生活。不慣れな生活や空腹からストレスがたまっていきました。そのはけ口として、いじめが行われたといいます。
まずしい家の子が、初めにいじめられたね。シラミがわくと、その子のせいにされ、だれも相手にしない。それに、おねしょをして、いじめにあって東京へもどされた子も2、3人いた。
「お国のために疎開をしている」という責任感みたいなものをみんな持っていた。だから、とちゅうで帰るというのは、すごくはずかしいことだった。いじめられた子の中には、いまでも疎開のことを話したがらない人もいる。
つらくて死のうと でも姉に…
やがて、泉さん自身がいじめられます。
だれも口をきいてくれない。ひとりで部屋でぽつんとしている日がつづいた。あのときは、つらくて死のうと思った。でも、ここで死んだら姉たちにもうしわけない。
当時は戦闘機ごと敵につっこんで死んでいく「特攻隊」は一番りっぱな人だと教えられていた。いじめた子を見返すために特攻隊に入って死んでやろうと考えた。
それから、年が明け、中学校を受験するために3月に東京へもどることが決まった。うれしくてしょうがなかったね。
東京にもどったのは、3月9日でした。東京が焼け野原になる、悲しいできごとの前日です。
57年ぶりに福島県・飯坂温泉へ
泉さんは、57年ぶりに福島市の飯坂温泉をたずねました。寝起きをした旅館はもうありませんでしたが、小学校へつづく道には、当時のおもかげがのこっていたそうです。愛宕山にものぼりました。

「頂上から見る山々は昔とかわらず、当時のつらさやさびしさを思い出しました。でも、こうして同じ風景をながめられるのは、いまが平和だからこそだなあと感じました」と話しました。
【キーワード】
学童疎開
戦争の末期、はげしくなる空襲をさけるため、大都市の子どもを近くの農村などに避難させました。

1944年7月から、国民学校(いまの小学校)3~6年生が、お寺や旅館などで学校ごとに集団生活をさせられました。45年になると空襲はさらにはげしくなり、1・2年生も疎開にくわわりました。こうした「集団疎開」を経験した子どもは、全国で約40万人をこえるといいます。
親の実家や親せきの家にあずけられる「縁故疎開」もありました。
特攻隊
戦争の末期に軍隊の中につくられた特別攻撃部隊のこと。飛行機を操じゅうしたまま、敵の軍艦に体当たりしました。命と引きかえに敵にダメージをあたえる戦法でした。出動した特攻機は約2500機ともいわれ、多くの若者が亡くなりました。海の中から「魚雷」で体当たりする部隊もありました。
(朝日小学生新聞2002年8月6日付)

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