1945年8月9日に長崎に原子爆弾(原爆)が投下されてから、きょうで76年をむかえます。被爆者は年を取り、経験を語る人が減って、原爆のおそろしさが忘れられてしまうのではと心配しています。(佐藤美咲) ※この記事は、2021年8月9日付のものです

被爆体験を聞こう
負傷しながら救護 必死に父をさがした
きょう、長崎市で開かれる平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げる、岡信子さん(92歳)。16歳のとき、原爆が落ちた中心地から約1・8キロメートルはなれた自宅でお母さんと弟とともに被爆しました。
「母と話をしながら横になっていて、私が立ち上がろうとした瞬間、ふき飛ばされました」。気を失い、意識がもどったとき、目の前は真っ暗。「うっすらと光が見えたとき、初めて自分が床の下にいるとわかりました」。お母さんの手で引きずり出されると、割れたガラスが体にささり、血だらけになっていました。
岡さんは当時、看護専門学校の学生でした。45年の春に学校のある大阪へ移りましたが、空襲が激しくなり、8月に長崎市へもどったのです。それから間もなく原爆にあいました。

被爆から3日目。岡さんは救護を命じられ、市内の新興善国民学校に設けられた救護所へ向かいました。そこは被爆者でいっぱいでした。やけどをして皮膚がたれさがっている人もいました。医薬品はほとんどなく、食料はくさったおにぎり。看護の勉強も十分ではありませんでしたが、見よう見まねで対応しました。亡くなる人も大勢いました。
救護活動をする一方、岡さんは、行方がわからないお父さんをさがしました。活動の合間にほかの救護所を回りましたが、見つかりません。岡さんの足の傷にはウジがわいていました。それを見たお母さんは「もうやめて」と言いましたが、「お母ちゃんが私の心配をしているように、私もお父さんのことが心配」とふり切りました。重傷のお父さんを見つけたのは、原爆投下から1週間後のことでした。
岡さんが当時の体験を話すようになったのは、10年ほど前からです。新聞の取材や、めいから聞かれたことがきっかけです。「自分の年も考え、今のうちに話しておこうと思いました」
この記事を読む子どもたちには「お父さんとお母さんを大事にしてほしい」と言います。「戦争で亡くなった人の祈りと、生き残った人たちが次の世代のためにと立ち上がった汗と涙、苦労のおかげで、平和な今がある。そのことを若い世代は、忘れないでほしい」
長崎への原爆投下
1945年8月9日午前11時2分に、アメリカ(米)軍が長崎に原爆を落としました。広島に原爆を落としてから3日後のことでした。45年末までに約7万4千人が亡くなったとされ、今も原爆の熱線、爆風、放射線による「原爆症」で苦しむ人がいます。
(朝日小学生新聞2021年8月9日付)

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