イラスト・佐竹政紀

国産の銅銭、都をつくる費用に

「和同開珎」というお金を知っていますか。今から1300年以上前の708年からつくられはじめた日本のお金です。

この年、武蔵国秩父郡(今の埼玉県秩父市)で大量の銅が発見され、朝廷に献上されました。そこで朝廷は元号を「慶雲」から「和銅」に変え、お金をつくったのです。

和同開珎には最初、銀銭と銅銭がありましたが、すぐに銅銭だけになりました。直径約24ミリの円形で、中央に四角い穴が開いています。唐(中国)の「開元通宝」を参考にしたといわれ、時計回りに「和同開珎」の4文字が刻まれています。

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朝小プラスまなび

当時、奈良の都(平城京)をつくるために多くの人々をやとう必要がありました。その人々に支払う賃金にするため、朝廷は和同開珎をつくったといわれています。

この時代には、おもに布や米がお金のかわりをしていて、人々は市場で布や米を必要なものと交換していました。しかし、財政難だった朝廷は、立派な都をつくる費用を布や米で支払う余裕がありませんでした。そこでお金をつくったのです。

じつはお金を流通させると朝廷がもうかるのです。お金の材料費より、お金の価値を高く設定するからです。これは今も同じで、たとえば100円玉1枚をつくるのにかかる費用は約25円といわれます。材料費25円の硬貨に4倍もの価値を持たせているわけです。単純に計算すれば、100円玉を1枚つくるたびに75円もうかることになります。つまり朝廷は和同開珎を安くつくって高い価値を持たせ、都の造営費の支払いにあてようとしたのです。

では、和同開珎は今の価値だと1枚いくらなのでしょう。奈良時代の初め、和同開珎1枚で1升の米が買えたといいます。1升は約1・5キロです。今、15キロの米は4千~5千円ぐらいですから、その10分の1が和同開珎1枚の価格といえます。つまり、今の400~500円程度です。

当時は、お金という新しいものを理解できない人々も多く、和同開珎はなかなか流通しませんでした。そこで朝廷は「お金をためると位を授ける」という法律を出し、普及に努めたのです。

今日のポイント!

朝廷は708年に和同開珎というお金をつくりはじめました。和同開珎が広く流通する前は、布や米がお金のかわりになっていました。

和同開珎は、どんなきっかけで、何のためにつくられ、流通したのかをつかみましょう。

かわい・あつし

歴史作家。都立中高一貫校や私立中高の教諭を経て、多摩大学客員教授。多くの日本の歴史の本を書くかたわら、テレビ出演や講演活動もおこなう。

(朝日小学生新聞2014年5月22日付)