イラスト・佐竹政紀

前の都は失敗作? 実力者が強引に

710年、元明天皇は藤原京(奈良県橿原市)から平城京(奈良市)に都をうつし、奈良時代が始まります。

元明天皇は、新しい都へうつるとき、次のような言葉を残しています。

「私はまだ即位したばかりで、都をうつしたいとは考えていませんでしたが、新しい都をつくるのは国家にとって重要だと皇族や貴族たちが強く言うので、その意見に従うことにしたのです」

元明天皇は乗り気でなかったようですね。じつは、実力者の藤原不比等が都をうつすことを強行したといわれています。

平城京の前の都、藤原京は694年にできました。真ん中に藤原宮(天皇が住む内裏などの地区)があり、その外側は東西に走る道路(条)と南北に走る道路(坊)で碁盤の目のような区画になっています。これを条坊制といい、唐の都にならって日本で初めてつくられました。大きな都で、藤原宮の主な建物は石の土台や瓦を使ったがんじょうなつくりでした。

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そんな藤原京をわずか16年で捨てたのは、なぜでしょうか。

一つは藤原京が失敗作だったからという説です。702年に朝廷は遣唐使を送りました。もどってきた遣唐使の話で、唐の都・長安に似せてつくったはずの藤原京が、実物とまったく異なっているとわかりました。そのため、新たにつくり直したのだというのです。

しかし平城京には長安にない外京という部分があるなど、あまり長安に似ていると思えません。

もう一つは都をうつして不比等の屋敷を内裏の隣に建て、娘の宮子が生んだ首皇子の成長を見守りたかったからという説です。

平城京は東西約6キロメートル、南北約5キロメートルの大きさでした。北の中央に平城宮があり、平城宮の正門(朱雀門)から、はば約70メートルの朱雀大路(道路)が都の正門・羅城門までまっすぐのびています。朱雀大路をはさんで西側を右京、東側を左京と呼び、それぞれに市場が置かれました。

2007年、都の外とされていた場所から十条大路跡が発掘され、平城京がもっと広かった可能性が出てきています。

今日のポイント!

710年、元明天皇は藤原京から平城京に都をうつしました。

藤原京は、それまでにない条坊制という区画の、壮大な都でした。それをわずか16年でうつした意外な理由から、奈良時代のイメージをつかみましょう。

かわい・あつし

歴史作家。都立中高一貫校や私立中高の教諭を経て、多摩大学客員教授。多くの日本の歴史の本を書くかたわら、テレビ出演や講演活動もおこなう。

(朝日小学生新聞2014年6月5日付)