
第3回「広島こども会議」
さまざまなテーマで未来について考える朝小50周年企画・未来を見に行こう「こども会議」。3回目は広島県広島市で開催しました。
読者12人が受け取った被爆者たちの思い
72年前の8月6日、広島市に世界で初めて原子爆弾(原爆)が落とされました。朝日小学生新聞は先月25日、広島市で第3回「こども会議」を開き、原爆のおそろしさを経験して平和をうったえる人々や、その思いを受けつぐ次世代の大人たちに、読者12人が出会いました。今日は被爆した3人の話を紹介します。
生きられなかった命を知って
折り鶴配る川本省三さん(83歳)

「これ一つで、いろんな国の人と友だちになれるよ」。被爆者の川本省三さん(83歳)は全員に、羽を動かせる折り鶴と、鶴をのせる紙飛行機を手わたしました。
これまでに配った「折り鶴ヒコーキ」は20万個以上。「持って帰って、生きたくても生きられなかった子どもたちがいることを忘れないでもらいたい」という思いをこめています。
広島では折り鶴は平和を願うシンボルです。2歳で被爆した佐々木禎子さんは白血病になり、回復をいのって鶴を折り続けましたが、12歳で亡くなりました。
川本さんは原爆が落とされた時、11歳。学童疎開先の広島県三次市で「きのこ雲」がものすごい勢いでふくれ上がるのを見て、「何かが起こった」と察しました。お姉さん以外の家族を亡くし、広島市にもどったため被爆。半年後にお姉さんも白血病で亡くなり、ひとりぼっちになりました。「とにかく実感がわかない。これからどうしようかと考えることもできなかった」と、しぼり出すように話します。
原爆で家族を失い、命を落とした子どももいます。「6千人が行方不明。その子たちのことは、だれも知らないんです」。たき出しにありつけず、なべの水に布をひたして吸っていた子。水でふやかした新聞紙を食べていた子……。「生き残った人の話を聞いてください。そして、自分が聞いた本当のことを話してください。あったことを記憶にとどめて、くり返さないためにはどうしたらいいか、君たちが話し合っていってください」

同級生はみんな被爆者
木谷朱実さん(74歳)
木谷朱実さん(74歳)は、2歳の時に爆心地から約2・8キロの自宅で被爆しました。
「小学校のクラスメートは全員、被爆者。足が変形してくつがはけない子や、背中を大やけどした子がいました」
佐々木禎子さんは隣の学校区で、学年は一つ上。禎子さんの死を知った時は、友だちと「死んじゃったんよう。私らも(病気に)なるんかね」と話し、原爆のこわさを感じながら育ちました。「私は原爆の記憶があり、広島の街が立ち上がっていくようすを見ている最後の世代。きちんと伝えていかなくては」と平和記念公園や平和記念資料館を案内するピースボランティアを続けています。
体験を反核兵器の力に
寺本貴司さん(82歳)

寺本貴司さん(82歳)は、原爆の犠牲者には身元がわからない人や、名前が判明しても家族がわからない人がたくさんいると強調しました。
原爆が落とされた時は10歳。爆心地から約1キロの自宅から逃げる時に見た光景が忘れられません。「がれきから頭だけを出した人がいました。みんな逃げるのでせいいっぱいで、あのまま助けられなかったら焼け死んだだろう。あの人は身元がわからない一人なのかもしれない」
被爆の経験を伝えるのは、核兵器はおそろしいものだと次の世代に引きついでもらいたいからです。「そうすれば核兵器反対の大きな力になり、いつかはなくなる」と願っています。
【広島に落と長崎とされた原爆】
1945年8月6日午前8時15分に広島に、同9日午前11時2分に長崎に、アメリカ軍により原爆が落とされました。熱線と爆風、放射線の影響で同年だけで計約21万人が亡くなりました。
(朝日小学生新聞2017年8月5日付)
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