8月20日オンライン「被爆体験の伝承を聞く」開催(無料)

平和記念公園には多くの人が訪れています。中央に見えるのは原爆ドーム=4月26日、広島市

清水弘士さん 体験を語り平和願い続けて…7月亡くなる

広島で原子爆弾(原爆)の被害にあい、自身の体験を次世代に伝えてきたある被爆者が7月2日、この世を去りました。清水弘士さん(享年83)。その体験や思いを聞き取り、「伝承者」として活動する記者が、清水さんからのメッセージを伝えます。アメリカ軍が広島に原爆を落としてから、きょう8月6日で80年です。(中塚慧)

1945年8月6日、広島で被爆 3歳だった

病気をかかえ、酸素吸入器を引きながらも6月半ばまで修学旅行生たちに体験を語り続けた清水さん。「80年前の原爆の話は、昔話ではない。いまにつながる問題だ」と、力強くうったえていました。

平和への思いを語る清水弘士さん=4月26日、広島市「原爆は昔話ではない」

1945年8月6日午前8時15分。3歳だった清水さんは、爆心地(原爆が落とされた真下の地点)から約1.6キロメートルの自宅にいました。お母さんがとっさに清水さんをかかえこむと、家がくずれました。そのとき、「ドーン」というすさまじい音が鳴りました。お母さんは傷で血だらけでしたが、清水さんはほぼ無傷でした。

すぐに火の手がまわりました。にげる途中、「スローモーションのようにかすみの中をゆったりと動く人間の群れを見た」ことを覚えています。その夜、広島のまちは燃え続け、空は真っ赤でした。

爆心地から約1キロメートルほどの職場で被爆したお父さんは、傷だらけになっていました。放射線の影響からか、お父さんは2か月後に息を引き取りました。亡くなるとき、おなかが青黒くなっていたそうです。「自分がなぜ死ななければならないかわからないまま、家族を残して死んでいくのは苦しかっただろう」と清水さんはいいます。

戦争で犠牲になるのは私たち市民だ

修学旅行で広島市を訪れた小学生たちに向けて話す清水弘士さん=2022年6月

原爆―その後に苦しんだ日々こそ知ってほしい

人の心もむしばんだ

清水さんは「原子爆弾が落とされた日だけではなく、その後に苦しんだ日々こそ知ってほしい」と、体験を伝えていました。

原爆で家が焼け、親戚のもつ小屋に移り住んだ清水さん一家。お父さんが亡くなると、親戚から「出ていけ」と追い出されました。ほかの人に売ったり貸したりしてお金にしたいというのです。清水さんは「戦争で人の心もすさんでしまう」と話します。

その後、お母さんとお兄さんと広島駅前の「闇市」で暮らすことに。闇市は、役所の許可を得ずにものの売り買いがされた市場です。お父さんの死後、お母さんはそこで商売をしていました。

「限られた空間に、昼間は皿や茶わんなどの商品を並べ、夜は布団をしいて3人でねる暮らしが8か月ほど続きました」

もと住んでいたあたりに引っこせたのは、原爆が落とされてから約1年半後です。

子どものころの清水さん(左)とお兄さん 清水さん提供

悪魔の兵器なのです

清水さんは、放射線の影響からか、被爆の直後から激しい下痢におそわれました。朝起きたら、ねている間に出た鼻血でかけ布団や枕が真っ赤になっていたことも。体はずっとだるく、体育の授業はいつも見学でした。

症状がすっと消えたのは中学2年生のころ。しかし、同じ学年にあたる佐々木禎子さんという、後に折り鶴で世界的に有名になった少女は、被爆から10年後に白血病で亡くなりました。

大人になるにつれ元気になった清水さん。ところが50歳ごろから、肺や腎臓の病気など、原爆症とされるさまざまな症状が出始めました。亡くなるまで、毎日、十数種類もの薬を飲み続けました。「被爆者は死ぬまでずっと原爆を背負い続けて生きなければならない。だから、原爆は悪魔の兵器なんです」

いまが本当に平和か考えてほしい

「闇市で生きる」(郷原綾乃さん作、広島平和記念資料館所蔵)。清水さんの被爆体験をもとにした作品です

体験を語るようになったのは、70歳ごろ。きっかけは2011年の東京電力福島第一原子力発電所の事故です。それまでは、被爆当時に3歳だったため、自分は語る立場にはないと考えていました。ところが放射線の影響で全国にのがれた福島の人たちを見て、「もうだまっているわけにはいかない」と考えました。

証言の活動をする中で読んだ資料で、「被爆者の空白の10年」という言葉を知りました。原爆が落とされてから約10年間、被爆者が国から援助を受けられず、病気や差別に苦しんだ期間です。

戦後、1952年まで日本を占領した連合国軍により、原爆の被害を報じることを禁じた「プレスコード」が発せられました。情報がないために原爆の症状は「伝染病らしい」などといわれ、被爆者への偏見が広がりました。

被爆者たちが声をあげ、国の負担で医療を受けられるようになったのは57年のことです。「戦争が終わったと政府が宣言しても、国民にとっての戦争は終わらない。戦争で犠牲になるのは私たち市民だということを、この期間は表している」。空白の10年は、清水さんが体験を語るときのテーマとなりました。

核兵器はいま、世界に1万2200発以上あるとされます。日本は戦争で被爆した唯一の国ですが、核兵器を禁止する条約には背を向け続けています。

清水さんは子どもたちにこう願います。「いまが本当に平和か、考えてみてほしい。80年前の原爆の話は昔話ではありません。いまの政府がどこに向かっているのか、しっかりと見守っていって」

戦後80年 清水さんの思いを伝えてゆく

朝小・中塚慧記者、「被爆体験伝承者」に

清水弘士さん(右)と中塚慧記者=2024年10月、広島市

清水弘士さんは2019年、自身の体験や思いを引きつぐ「被爆体験伝承者」を育て始めました。今年7月に亡くなるまで、7人が清水さんの伝承者として広島市から認められています。記者である私(37歳)もその一人です。(中塚慧)

もっと学びたい…数年の研修経て

被爆体験伝承者の研修は数年間にわたります。被爆者への聞き取り、講話で語る原稿の執筆、実習を経て広島市に認められると活動を始められます。広島平和記念資料館(広島市)で講話をしたり、東京に住む私のように広島からはなれたところに暮らす人たちは、その地域の学校などで話したりします。

私は19年に研修を受け始めました。記者として被爆者の取材をするうちに、1回のインタビューで記事を書くだけでは伝えきれない、もっと勉強したいと考えたからです。23年に認定され、現在は日本語と英語で清水さんの被爆体験を伝えています。

今年4月、広島平和記念資料館で初めて英語の講話をしました。会場にはイタリア、アメリカ、フランスから来た人たちがいました。終わった後に、フランス出身のジオネ・ジュリーさん(25歳)が感想を聞かせてくれました。

「戦後、被爆者の身に何が起きたのかがとても興味深かった。とくに差別の問題。そんなことがあったとは、とおどろきました」。私はジオネさんに「きょう聞いたこと、何でもいいのでフランスの家族や友だちに共有してください」と伝えました。

私は、清水さんが亡くなる12日前に電話をもらいました。緊急入院を前に「やり残したことがある」と話していました。証言や伝承の活動を続け、核兵器のない世界をめざすという思いです。私はそれを引きついで、これからも清水さんのことを多くの人に伝えていきます。

「伝承は いまに生かさなければ」

長峰由紀さん 元TBSアナウンサー

伝承の活動について話す長峰由紀さん=6月17日、東京都中央区

元TBSアナウンサーの長峰由紀さん(62歳)も、2024年から清水さんの伝承者として活動しています。

伝承者をめざしたのは、戦争はしてはいけないよ、という「種」をたくさんの人から受け取ってきたからでした。

10代で太平洋戦争を体験したお父さんは「戦争中は、納得して死にたいといつも思っていた」と語りました。「つまり、納得していなかったということです」と長峰さん。お母さんは「戦争中と比べたらへっちゃら」が口ぐせでした。

小学校の先生は「原爆を許すまじ」という歌を、高校の先生は「戦争をすると、自分の道を自分で選べなくなる」と教えてくれました。

「最後に大きな種をくれたのが、清水さんです」。研修で清水さんの被爆体験を聞き、「被爆者の空白の10年」(2面参照)を知り、衝撃を受けました。「戦争のおそろしさ、核兵器のおそろしさ、弱い人を見捨ててしまう国家権力のおそろしさ。空白の10年にはすべてがつまっています」

ある中学校で講話したとき。生徒からのあいさつで「空白の10年を知ることができて、勉強になった」という言葉がありました。多くの人が知らない空白の10年が伝わったことに、手応えを得ました。「『清水さん、よかったですよ! 伝わりましたよ』と大きな声でさけびたくなりました」

長峰さんは「伝承は、過去から学んだことをいまに生かさなければ意味がない」と考えます。

「核兵器は戦争で使われた。戦争中は多くの人が戦争に反対できなかった。それをくり返さないように、歴史を知り、いまを見つめる目を持ってくれたら。これは清水さんの願いでもあります」

広島への原爆投下

広島に落とされた原爆のきのこ雲=1945年8月6日 アメリカ軍撮影、広島平和記念資料館提供

 太平洋戦争末期の1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍が広島に原爆を落としました。爆風、熱線、放射線によりその年だけで約14万人が亡くなったと推計されます。同じ年の8月9日には長崎にも原爆が落とされました。

 広島、長崎で原爆にあい、「被爆者健康手帳」を持つ人の数は今年3月末時点で9万9130人。初めて10万人を切りました。平均年齢は86.13歳です。

広島市の被爆体験伝承者

 広島市が2012年度に制度を始めました。研修に参加でき、おおむね5年以上活動できる人ならだれでも応募できます。

 研修1年目では、体験を引きつぐ候補となる被爆者全員の話を聞きます。伝承したい人を選び、被爆者の希望ともすりあわせてマッチングをします。2年目以降、被爆者と月1回ほどのミーティングをし、講話で話す原稿を書いていきます。

 広島市によると、家族の被爆体験を受けついだ家族伝承者とあわせて、7月1日時点で273人が活動しています。

平和について考えるオンラインイベント

今、「被爆体験の伝承を聞く」

広島市の平和記念公園。奥には、原爆死没者慰霊碑や原爆ドームが見えます=4月

長峰由紀さん、中塚慧記者によるオンラインイベント「被爆体験の伝承を聞く」を8月20日(水)午後3時半から開きます。テキストは、今日の紙面です。広島と長崎に原子爆弾が落とされて80年のこの夏、被爆体験のお話に耳をかたむけてみませんか。定員は100人(予定)。詳細や申しこみは、以下のボタンから。しめきりは8月13日(水)。

申し込みはこちらから

自由研究・探究学習のまとめ方

おすすめ学年:小3、小4、小5、小6

【STEP1】記事の内容を200字で要約しよう
【STEP2】次のことがらについて調べてみよう
・身近な人の戦争体験や、体験を伝える活動する人に話を聞いてみよう
【STEP3】調べてわかったことや感想をまとめよう

オンラインイベントの聞き取りに活用できるワークシートもあります。ダウンロードして使ってください

ワークシートをダウンロード

(朝日小学生新聞2025年8月6日付)