平和を願い続けたからこそ

「あ、ライオン先生」。泉昭二さんの三つ年上のお姉さん・伊丹たつ子さん(96歳)は、泉さんの担任だったライオン先生のことをよく覚えていました。絵本のコピーを見せると、ページをめくりながらこうつぶやきました。「大きな声でどなるので、男の子たちは『ライオン』って呼んでいましたね。こわいけれど、人気者でもありましたよ」

泉さんの姉・伊丹たつ子さん(左)と、おい・三留功一さん=7月25日、神奈川県川崎市

戦争への参加が当たり前の空気感

泉さんをふくむ当時の男の子たちにとって、海軍飛行予科練習生(予科練)はあこがれの存在でした。ところが、絵本のなかでライオン先生は、予科練になった教え子にもどなります。「バカヤローッ! 死んじまうぞォ! 予科練なんぞになりやがって」

実際に予科練の多くが、戦争末期になると特攻隊として戦闘機ごと敵の軍艦などにつっこみ、命を落としました。

泉さんが亡くなるまでの約10年間、担当編集者をつとめた谷ゆきさんは「戦争に参加するのがごく当たり前という当時の空気感が伝わり、あれほど『戦争はいやだ』といっていた泉先生でもそうした子ども時代を過ごしたのだと改めて思った」と話します。

貴重な史料、まんが家像を広げる

戦争がはげしくなり、子どもたちは学童疎開で福島へ。東京に残るライオン先生が、駅で見送る場面で物語は終わります。その後、東京は空襲にあい、ライオン先生の消息はわかっていません。

京都精華大学マンガ学部教授の吉村和真さんは、当時のくらしを知る貴重な史料であると同時に、泉さんのまんが家像を広げる発見だといいます。「ジャンケンポンとは別に、かかずにはいられなかったテーマなのでしょう。人物から背景までていねいにかきこまれた、精巧な描写力にもおどろきました」

泉さんは生前「ぼくのまんがを見てやさしい気持ちになって、いじめや戦争をなくしてほしい」とたびたび語っていました。子どもたちに、自分と同じ思いをさせたくない。その願いが、のこされた絵本から伝わります。

泉さんは2002年8月、朝日小学生新聞の平和特集で、ライオン先生と別れた後の日々について語りました。その一部を紹介します。(イラストはどれも泉さん)

【学童疎開】

イラスト・泉昭二

戦争がはげしくなった1944年8月、都市部の子どもたちは学校ごと地方に避難しました。6年生だった泉さんは、福島県の飯坂温泉へ。集団生活でたまったストレスからいじめの標的となり、「つらくて死のうと思った」とふり返ります。

ぼくがみた戦争 泉昭二の子ども時代(1) 学童疎開

朝小プラスまなび

【東京大空襲】

イラスト・泉昭二

疎開先から東京・荒川の自宅にもどったのは、1945年3月9日。その日の夜中、東京大空襲にあいます。姉のたつ子さんによると、このときは家族も家も無事でしたが、4月13日の空襲で家が焼けてしまいました。

ぼくがみた戦争 泉昭二の子ども時代(2) 東京大空襲

朝小プラスまなび

【終戦】

イラスト・泉昭二

「終戦」を知らせる放送を聞いた8月15日、泉さんは電車を乗りついで皇居へと向かいました。「どうしたらいいかわからない」「努力が足りず負けてもうしわけない、あやまらなければ」という気持ちだったといいます。

ぼくがみた戦争 泉昭二の子ども時代(3) 終戦

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